【新説】 沖縄県の銭湯・風呂屋(ゆーふるやー)の歴史♨


写真左:1963年。北谷村の銭湯「謝苅湯」 出典:沖縄県公文書館 右:2023年。沖縄市の銭湯「中乃湯」 撮影:銭湯・奥の細道
沖縄の銭湯・お風呂屋さん、沖縄方言では「ゆーふるーやー」♨
銭湯の記事でも時々取上げられる事はありますが、「沖縄県は銭湯1軒しかない。」「建物が独特で」「昔はいっぱいあったらしい」ということは繰り返し書かれますが、実はよく分かっていない部分も多く、ずっと疑問を感じていました。
そこで、先日沖縄に行って、実際に銭湯に入り、史料と現地調査してきました!!
中乃湯さま、沖縄県公文書館さま、沖縄B級ポータルDEEokinawaさま、沖縄市戦後文化資料展示館ヒストリートさま、その他沖縄の皆様、調査の協力ありがとうございました!!
※沖縄県の昔や現在の資料を調べても、「銭湯」「風呂屋」「ユーフルヤー」どれも使われていたので(法律や議会の場合は「公衆浴場」)、今回記事の中では特別意味があったり引用箇所以外は『銭湯』である程度統一して書いています。
それでは、長文になりますが、沖縄の銭湯の歴史を当時の写真と史料をもとに振り返っていきましょう♨
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目次
○戦前の沖縄の銭湯
○戦後の沖縄の銭湯
○アメリカ統治下、琉球政府での「公衆浴場法」成立
○沖縄の銭湯の衰退
○沖縄の銭湯の現在
☆沖縄の銭湯の軒数の推移と入浴料金の変化
☆参考文献、スペシャルサンクス
○戦前の沖縄の銭湯
戦前の銭湯についての記録は、沖縄に限らず非常に少ないので、ここは2017年に沖縄市戦後文化資料展示館ヒストリートで開催された「沖縄市のユーフルヤー」展の文章を引用させていただきます。
沖縄にユーフルヤーが登場したのは意外に早く、1680(尚貞12)年評定所の廻し文(回覧文)に湯屋利用の諸注意がある。那覇市西の真教寺門前から北横手一帯に湯屋が存在していたという。
しかし、沖縄を含め、日本人は入浴の習慣はあまりなかったようで、それは神事で沐浴・禊をして身を清めてからという言葉に端的に表されているようだ。また、正月ユーフルやシチグヮチ(旧盆)ユーフルという言葉もあった。
風呂屋は、明治期に入り増えていくが、現在のように毎日風呂に入るというのは上水道の普及まで待たなければならなかった。それまでは銭湯に行くのはまれで、池(クムイ)や川・井戸で浴びることが多く、家では手足を拭く程度であった。
【中略】
沖縄の風呂屋は登場した当初は不定期に営業し、のちに常時営業するようになったようである。建物は木造建築が多かった。
KOZA BUNKA BOX 第14号 引用
戦前の『警察統計報告』の記録を調べると、沖縄県内には大正時代は90軒前後、昭和初期は150軒前後(年によってかなり数の上下動はあるが)あったことが分かっています。
○戦後の沖縄の銭湯


写真出典:沖縄県公文書館 左:アメリカ軍による沖縄上陸作戦。 右:1945年6月。日本軍から攻略したばかりの那覇飛行場にある砲弾跡で水浴びを楽しむアメリカ海兵隊。後ろにあるのは日本軍の戦闘機。
1945年(昭和20年)、日本の敗戦によって太平洋戦争は終結する。
日本の中で唯一の地上戦を経験し、民間人、日本軍、アメリカ軍にも多大な犠牲を払った沖縄。
終戦ともにアメリカ軍はすばやく沖縄での占領統治、行政改革基礎作りを始めました。
沖縄の市民は、各難民収容所から解放され、アメリカ軍の軍用トラックに便乗して、それぞれの古里に帰郷し、新しい生活と部落の再建に着手しました。その時にアメリカ軍の空ドラム缶利用しての露天風呂が沖縄の戦後の「浴場」の始まりでした。



写真出典:沖縄県公文書館 左:沖縄本島の集落にある公共の洗濯兼入浴所。 中央:1945年4月26日。金武町。水路へ取水された水はまず飲料水として用いられ、次に野菜洗い用、水浴び用、最後が洗濯用。 右:1945年4月2日 洗濯をし、水浴びをする地元民。
1945年前後にアメリカ軍が撮影した当時の入浴所を見ると、設備面でも衛生面でも環境が整っているとはとても言い難いものであり、生活衛生上、『新しい銭湯』が人々の生活に求められました。
そして、戦後復興が進むとともに沖縄各地で次々に銭湯が誕生していきます。特に1950年(昭和25)前後から、各地域で数ヶ月に1軒ずつ銭湯が開業していった事が当時の新聞記事から分かります。この時期に、沖縄の銭湯は、庶民の生活に欠かせないものになり、爆発的にその数を増やしていきました。


写真出典:沖縄県公文書館 左:1963年。北谷村の銭湯「謝苅湯」。 右:1963年。那覇 「日の出湯」。
史料調べて当時の銭湯の記録を読んだり、今回沖縄の銭湯の跡地を現地調査して気づいたんですが、
沖縄県の銭湯の、本土の銭湯と違う特徴として・・・
①小規模な銭湯が多い。
本土の銭湯に比べて規模が小さく、建物は普通の民家や商店と同じか少し大きい程度ものが多い。
②銭湯経営者は、ほとんど沖縄の地元の人。
東京や関西の銭湯経営者は、戦後に他県(北陸地方など)からやってきた方が多いのは知られていますが、沖縄の場合、他県の出身者はほぼいない。当時の公衆浴場営業許可台帳の原本を見ましたが、経営者の本籍地が沖縄以外の他県の人は(全てを確認したわけで訳ではないが)見つける事はできませんでした。
これは、沖縄県がアメリカ統治下で他県との行き来が非常に難しかった事が第一と、水資源が乏しい沖縄で貴重な水をふんだんに使う銭湯という商売は、信用がおける地元の人が行ったのでは?などの理由が推測されます。
③設備が劣悪・問題のある銭湯が多かった。
詳しくは後述しますが、日本本土では1948年(昭和23)にできた公衆浴場法が、沖縄では1953年(昭和28)まで未整備でした。そのため、終戦直後の混乱期に、資材が乏しい時の仮浴場や不完全な浴場、旧「沖縄縣令湯屋取締規則」や「鹿児島縣令湯屋取締規則」に基づく許可で建てられた銭湯も多くあり、設備等に問題ある公衆浴場も多く存在したようです(※琉球立法院議事録・1953年7月13日)。

☆沖縄の銭湯の特徴として、「浴室と脱衣所の仕切りがない」や「番台ではなく入口付近に受付がある」、また「蛇口や鏡が高い位置にある」などの他県の銭湯では見られない建物の特徴があります。その理由として、沖縄の高温多湿な気候がゆえ、と説明されてきましたが、それだけでも説明のつかない部分も多くあるので、今後その点をさらに詳しく調べたいと考えています。
1950年代1960年代の戦後復興とともに銭湯の需要と建設は増え、1958年~65年(昭和33~40)頃に沖縄の銭湯は最盛期を迎えます。沖縄県内(離島も含め)の銭湯の数はなんと311軒を記録しました。
だがその直後、沖縄の銭湯はその数を激減させ、衰退期に突入します。
※この記事の末に沖縄の銭湯の数の推移と入浴料金の変化の表があるので、参考にしてください。
○アメリカ統治下、琉球政府での「公衆浴場法」成立
アメリカ統治下での歴史は、沖縄の銭湯を語る上で非常に重要だが、全く触れられてこなかった部分です。
1945年(昭和20)の終戦後、1952年(昭和27)のサンフランシスコ平和条約までの7年間、沖縄はアメリカ軍の占領下に置かれました。講和条約の発行により日本は再び独立国として国際社会に復帰しましたが、沖縄県はその後もアメリカの施政権下におかれ、1972年(昭和47)の沖縄返還までの27年間アメリカの統治下にありました。
日本本土では、1948年(昭和23)に銭湯についての法律「公衆浴場法」が成立し、同時期に銭湯の同業者団体である公衆浴場組合が各地で結成や再度活動を始め、その後銭湯業界は発展していた歴史がありますが、沖縄はこの流れから全く別の道を歩んでいきます。


出典:沖縄県公文書館 左:1953年成立の公衆浴場法(英文版) 右:1959年。琉球政府立法院。
1952年(昭和27)に琉球列島米国民政府(USCAR)のもとに琉球政府立法院(現在でいう沖縄県議会)が設置されました。立法院議員は沖縄の方ですが、すべての法案について、提出前と公布前に米国民政府(USCAR)に承認が必要でした。そうして議論し成立した法律の中に、琉球政府の「公衆浴場法」がありました。
琉球政府の「公衆浴場法」は、1953年(昭和28)に成立しました。すでに日本本土にあった公衆浴場法を参考にしていたもので、原本が英語で書かれている(もちろん日本語版もある)という特徴はありますが、内容自体には大きな違いはありません。ただ、日本本土版で盛り込まれていた銭湯間の距離(配置)制限は、「沖縄に当てはめた場合どの程度が適切なのか今の段階では分からない」という理由で、盛り込む事を見送られました。この時点で、琉球政府も、県内の人口密度や、銭湯の利用頻度、利用者数、営業状況をあまり調査把握できていなかった事がうかがえます。

出典:沖縄県公文書館 「公衆浴場営業許可台帳 1957年起」 ※一部、氏名や住所や生年月日等はこちらで加工しました。
4年後の1957年(昭和32)にこの琉球政府「公衆浴場法」の一部が改正され、営業許可の手数料、公衆浴場間の距離規定(新規で銭湯建てる場合は既存の銭湯から350メートル以上離す)、また公衆浴場の営業許可を期限付にする(最大5年)についての条文が追加されました。
この公衆浴場の営業許可を期限付にしたことは、非常に注目すべき点です。
日本本土の公衆浴場法での営業許可は永久許可で、自ら廃業するか、何かしら大きな問題を起こさない限りは抹消される事はほぼありません(当時も現在もそうです)。ですが、この琉球政府版の公衆浴場法では1957年の改正によって、更新制が導入されたのです。
営業許可が更新制になった理由としては、琉球政府立法院の議事録にはこうあります。
「現在琉球で、二百六十六の浴場業者がおります。そのうちの百三十三名、丁度半分は湯屋営業取締規則によつて、旧県令で終戦直後のごたごた時代に作つたものでありますが、百三十三、半分は丁度公衆浴場法が立法された一九五三年以後にできたものは、相当立派な施設もされておりますが、旧県令で作つた浴場はまだ十分に改善されていないので、五ヵ年以内にそういうところは十分に改善をさして、そうしてさらにまた、全部改善が済んだらさらに五ヵ年以内で更新の制度を取って絶えず時代の進運に沿うようにしていきたい」
琉球政府立法院の議事録(1957年6月18日)引用
確かにこの1957年(昭和32)の公衆浴場許可台帳を見る機会がありましたが、すべての浴場に5年ないし2年の営業許可期限が書かれていました。公衆浴場法成立後にできた新しい銭湯は最大5年、古い規則で作られたり特に施設に問題があり早急な改善が必要な銭湯は期限2年にしたようで、施設に問題のある銭湯も多くある中で、施設の刷新と衛生環境向上を狙ったようです。
この公衆浴場営業許可の更新制度が、実際どのように運用されていたか、またこの制度がいつまで続いたのか、それが1960年代後半から起こる県内の銭湯の急激な減少との関連性があるのか、その点についてはさらなる調査と考察が必要です。
○沖縄県の銭湯の衰退


出典:沖縄県公文書館 左:1969年。那覇将校婦人クラブの方が石嶺児童園に瞬間湯沸し器を寄贈している。 右:1967年。新築された琉球大学男子寮のシャワー室を視察する琉球列島米国民政府と琉球大学の関係者
1965年(昭和40)の311軒をピークに沖縄県の銭湯は急激な勢いで姿を消していきます。
その理由についてきちんと正確に語られることはなかったですが、全浴連三十年史の中で沖縄県の銭湯経営者の1972年に書いた文章にその理由に言及したものを見つけたので、引用します。
陳情書(要点)
全流浴場業界に於きましても本土復帰の準備作業に取り組んで居りますが、復帰の期待より不安が先に立ち、二〇〇軒有余の業者が心配して居ります。転廃業してゆくその原因をかいつまんで見ると、次の通りだと考えられます。
一、極く便利な瞬間湯沸の出現普及に依り、銭湯の利用者が激減した。
二、住宅の新築及び改築の場合は殆どが自宅用風呂を造る。
三、諸物価は年々高騰を続け、生活費は嵩む一方て、収入と出資のつり合いが保てない。
四、莫大な資本投入と稼働時間の長い割に、利潤が余りにも少な過ぎる。
五、浴場は絶えず湯気発生のため、普通の住宅等に比べて施設が長持ちせず、修理補修が多くその他、ボイラー、煙突等の取り替え等、多額の費用が必要であり、私達の調査範囲で一日の入浴人口は次の通りであった。
①鹿児島市で五〇〇名、②大阪で六〇〇名、③東京都で八八〇名、④沖縄では凡そ七〇名前後と推定されております。
『全浴連三十年史』 P312 引用
今でこそ、銭湯は儲かる商売というイメージはあまりないですが、昭和30年代40年代までは日本本土では、銭湯は開店すれば大勢の客が来る、確実に儲かる商売の一つでした【銭湯黄金期】。だが、沖縄の場合、入浴客数が同時期の本土の銭湯の10分の1程度と、収支のバランスの悪さや経営基盤の弱さがあったようです。それにこの後、1970年代に起こったオイルショックなどの影響で、沖縄の銭湯が湯沸しの燃料として使っていたB重油の値段の高騰がさらに追い打ちをかけました。
前述したように沖縄の銭湯経営者の多くが地元出身であり、ほとんどの浴場業者が専業ではなく兼業していたとの記録もあり、転廃業へのハードルが低かったことや、東京や関西のような銭湯同業者間での繋がりが薄かった事なども影響した可能性が考えられます。また、県内の銭湯の分布には偏りがあり、1957年(昭和32)の公衆浴場法改正時の記録では、その当時の那覇・真和志の両市内の浴場68軒のうち、35軒が隣湯の350メートル以内にあったそうです。そうした銭湯の乱立も、急激な減少と関係があったかもしれません。
上記のような様々な理由があり、全国的には1970年代後半(昭和50年頃)から起きる銭湯の衰退期が、沖縄では他の地域よりも早く1965年(昭和40)以降から、急激に銭湯の閉店が起こったと考えられます。

出典:全国浴場新聞・昭和47年6月号 本土復帰後、全浴連総会に初めて参加した沖縄県の銭湯経営者の代表。挨拶でも現状の厳しさと本土復帰への期待がうかがえる。
1963年(昭和38)に銭湯の同業者団体である沖縄県那覇市公衆浴場業組合(任意)が設立され、各市町村単位での組合支部結成の動きが起こり、1970年(昭和45)に全流公衆浴場業組合連合会に改組した。その後、本土復帰に伴い、1972年(昭和47)7月に沖縄県公衆浴場業環境衛生同業組合が設立された。それまで米ドル(セント)だった入浴料金も日円読替え(レート:1ドル=305円)で大人五十四円、中人四十七円、小人三十六円、洗髪十一円となった。
本土復帰による行政の変化や公衆浴場組合の結成も県内の銭湯には強い追い風にならなかったようで、他県の銭湯や浴場組合から資料を取り寄せ対策を検討したり、行政に対して燃料費や設備更新の助成金の要望、入浴料金の改定要請、老人無料入浴事業など様々な努力を行ったようだが、前述した問題の根本的解決には繋がらず、1970年代、80年代、90年代と沖縄県の銭湯は減り続けました。
○沖縄県の銭湯の現在

現在営業している沖縄県内の銭湯は、沖縄市の『中乃湯』のみになりました。
お客さんは大都市圏の銭湯と比べて決して多くはないですが、営業中はほぼお客さんが途切れることはなく、地元の方にこの中乃湯が愛されていることを感じました。
中乃湯のシゲさんは、「内地の人が時々来てくれて、とても助かっているよ」と言っていました。
実際に中乃湯に入ってみると、その独特の建築様式もそうだが、玄関の方から脱衣所を通過して浴室まで流れてくる『風』が思いのほか心地よく、沖縄の銭湯独特の入浴ができました。前のベンチで休んでいると話しかけてくれたり、お菓子くれる中乃湯の常連さんの優しさなど、確かにここでしか味わえない体験がありました。
皆さんも、中乃湯に行って、ぜひ沖縄の銭湯を体験し、シゲさんや常連さんとユンタク(おしゃべり)楽しんでください♨
◎中乃湯 の営業情報
住所:沖縄県沖縄市安慶田1 【 地図 】
電話:
営業時間:14:00頃~19:00頃(最終受付18:00頃)
定休日:木・日曜日
最寄り:- 駐車場あり
主な設備:湯池(湯船)、アルカリ鉱泉
◎あとがき
この記事の冒頭で書いた通り、「沖縄の銭湯」については、取り上げられる話題が毎回一緒で、まだまだ面白い未知の部分がたくさんあります。この記事をきっかけにその探求がさらに広がるといいなあと思います。
他の地域と違う沖縄の特徴としては、銭湯(一般公衆浴場)だけでなく、サウナやスーパー銭湯などのその他の公衆浴場もあまり多くないということ。この点も今後調べられたら面白いなと思っています。
今回沖縄に行った時に、入った居酒屋で「沖縄の銭湯や風呂」について調べていると言ったら、
「テレビとかで沖縄県民は風呂入らない。とか面白おかしく取り上げられる事多いけど、あれは違うから。
湯船つからないだけで、シャワーで毎日体洗ってるし、日に2,3度シャワーする人もいるから。そこは強く言いたい!!」と笑いながら店の方が言ってました。
確かに5月上旬で気温はそこまで高くないけど湿度が非常に高く、常にじっとり汗ばむ気候。湯船で暖まるよりシャワーにザーッと汗を流したいという沖縄県民の気持ちは、数日いただけでもすごくよく分かりました(笑)
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。
銭湯LOVE♨
☆沖縄県の銭湯の軒数の推移(明治・大正・昭和・平成・令和)
西暦(和暦) | 銭湯の軒数 | 特記事項 | 西暦(和暦) | 銭湯の軒数 | 特記事項 | |
1989年(明治31) | 那覇で十数軒営業 (那覇湯屋営業組合) | 1980年(昭和55) | 82 | |||
浴場 | 1981年(昭和56) | 69 | ||||
1924年(大正13) | 92 | 警察統計報告より(~1939) | 1982年(昭和57) | 58 | ||
1925年(大正14) | 84 | 1983年(昭和58) | 48 | |||
1926年(大15/昭元) | 84 | 1984年(昭和59) | 41 | |||
1927年(昭和2) | 190 | 1985年(昭和60) | 36 | |||
1928年(昭和3) | 114 | 1986年(昭和61) | 35 | |||
1929年(昭和4) | 138 | 1987年(昭和62) | 32 | |||
1930年(昭和5) | 151 | 温泉浴場1 | 1988年(昭和63) | 32 | ||
1931年(昭和6) | 154 | 温泉浴場1 | 1989年(平成元) | 37 | 衛生行政報告 より(~2017) | |
1932年(昭和7) | 152 | 温泉浴場1 | 1990年(平成2) | 37 | ||
1933年(昭和8) | 170 | 温泉浴場1 | 1991年(平成3) | 31 | ||
1934年(昭和9) | 173 | 温泉浴場1 | 1992年(平成4) | 31 | ||
1935年(昭和10) | 168 | 温泉浴場1 | 1993年(平成5) | 31 | ||
1936年(昭和11) | 154 | 温泉浴場1 | 1994年(平成6) | 31 | ||
1937年(昭和12) | 140? | ←数字不鮮明。 温泉浴場1 | 1995年(平成7) | 30 | ||
1938年(昭和13) | 145 | 1996年(平成8) | 27 | |||
1939年(昭和14) | 144 | 1997年(平成9) | 26 | |||
1940年(昭和15) | 1940年以降データなし | 1998年(平成10) | 24 | |||
1999年(平成11) | 22 | |||||
1945年(昭和20) | 太平洋戦争終戦 | 2000年(平成12) | 21 | |||
アメリカの統治下に | 2001年(平成13) | 20 | ||||
1949年(昭和24) | 42 | 沖縄全島で42軒。新聞記事 | 2002年(平成14) | 15 | ||
2003年(平成15) | 14 | |||||
1953年(昭和28) | 琉球政府での公衆浴場法成立 | 2004年(平成16) | 15 | |||
2005年(平成17) | 10 | |||||
1957年(昭和32) | 266 | 琉球立法院会議録より | 2006年(平成18) | 10 | ||
2007年(平成19) | 7 | |||||
1964年(昭和39) | 311 | 全浴連資料より(~1988) | 2008年(平成20) | 7 | ||
1965年(昭和40) | 311 | 2009年(平成21) | 2 | |||
1966年(昭和41) | 240 | 2010年(平成22) | 2 | |||
1967年(昭和42) | 229 | 2011年(平成23) | 2 | |||
1968年(昭和43) | 221 | 2012年(平成24) | 2 | |||
1969年(昭和44) | 215 | 2013年(平成25) | 2 | |||
1970年(昭和45) | 210 | 2014年(平成26) | 1 | |||
1971年(昭和46) | 206 | 2015年(平成27) | 1 | |||
1972年(昭和47) | 203 | 2016年(平成28) | 1 | |||
1973年(昭和48) | 190 | 2017年(平成29) | 1 | |||
1974年(昭和49) | 147 | 沖縄返還。本土復帰 | 2018年(平成30) | 1 | ||
1975年(昭和50) | 140 | 2019年(令和元) | 1 | |||
1976年(昭和51) | 125 | 2020年(令和2) | 1 | |||
1977年(昭和52) | 118 | 2021年(令和3) | 1 | |||
1978年(昭和53) | 110 | 2022年(令和4) | 1 | |||
1979年(昭和54) | 99 | 2023年(令和5) | 1 | |||
沖縄県は前述した歴史的な経緯により、銭湯(一般公衆浴場)の推移についての一貫した記録がない為、複数の記録を接ぎ合わせて、独自に作成しました。戦前、大正から昭和初期は「警察統計報告」。戦後は、琉球政府の記録と新聞記事などから、1964年からは全浴連三十年史から、1989年からは厚生労働省の「衛生行政報告」の私営一般公衆浴場数と全浴連資料から。太平洋戦争前後はデータがないので、空白になっています。
☆沖縄県の銭湯の入浴料金の推移
西暦(和暦) | 大 人 | 中 人 | 小 人 | 洗髪料 | 特記事項 |
1947年(昭和22) | 10円 | 8円 | 5円 | 女3円 | ※B円時代 |
~1957年(昭和32) | |||||
1958年(昭和33) | 8仙 | 6仙 | 4仙 | 女3仙 | ※ドルへの切り替え |
~1960年(昭和35) | 仙=セント。米国の貨幣単位 | ||||
1961年(昭和36) | 10仙 | 8仙 | 6仙 | 女3仙 | |
~1962年(昭和37) | |||||
1963年(昭和38) | 13仙 | 10仙 | 8仙 | 女3仙 | |
~1967年(昭和42) | |||||
1968年(昭和43) | 15仙 | 13仙 | 10仙 | 女3仙 | |
~1971年(昭和46) | |||||
本土復帰、沖縄返還 | 1ドル(100セント)=305円 | ||||
1972年(昭和47) | 54円 | 47円 | 36円 | 11円 | |
~1973年(昭和48) | |||||
1974年(昭和49) | 60円 | 50円 | 40円 | 15円 | |
1975年(昭和50) | 90円 | 80円 | 60円 | 15円 | |
1976年(昭和51) | 110円 | 85円 | 65円 | 20円 | |
1977年(昭和52) | 120円 | 85円 | 65円 | 20円 | |
1978年(昭和53) | 140円 | 90円 | 70円 | 20円 | |
~1979年(昭和54) | |||||
1980年(昭和55) | 200円 | 100円 | 70円 | 30円 | |
~2005年(平成17) | |||||
2006年(平成18) | 300円 | 170円 | 100円 | ※ | 洗髪料廃止 |
~2013年(平成25) | |||||
2014年(平成26年) | 370円 | 170円 | 100円 | ||
~2023年現在 | |||||
全浴連三十年史、全国浴場新聞のデータを基にまとめました。
☆参考文献
『警察統計報告』 内務省警保局
『衛生行政報告例』「公衆浴場数」 厚生労働省
『全浴連三十年史』 全国公衆浴場業環境衛生同業組合 著 1990年
『全国浴場新聞』 全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会
『KOZA BUNKA BOX 第14号』 沖縄市総務部総務課 市史編集担当 2018年
琉球政府立法院の議事録
公衆浴場法
☆スペシャルサンクス
○沖縄県公文書館
沖縄県、戦争中、アメリカ統治下などの貴重な資料や写真を多数保管。一部はホームページからも見たり、検索出来るのでぜひ見て欲しい。史料の玉手箱や~!! 閲覧室では、司書さんに今回の記事での新しい発見に繋がる史料の存在や調べ方を教えていただき、大変感謝しております。建物もかっこいい。
○沖縄B級ポータルDEEokinawa
現在営業中の中乃湯を始め、近年廃業した日の出湯、ときわ湯、旭湯の紹介記事や、今回の調査の一つのきっかけにもなった「沖縄の風呂屋はどこに消えたのか」の特集記事などは、必見!銭湯以下の沖縄関連の小ネタも面白い!今回の調査でも様々な情報やアドバイスをいただき、大変お世話になりました。
○沖縄市戦後文化資料展示館ヒストリート
過去の「沖縄市のユーフルヤー」展をやっていたので、今回資料をいただき、お話しを伺わせてもらいました。沖縄市内の風呂屋の情報はもちろん、それ以外の沖縄市の歴史や展示は非常に見所が多く、基地のまち「コザ」を知る事ができました。
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