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銭湯・奥の細道 (東北と全国の銭湯巡り)

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【終戦の日特集】 戦争中の銭湯は、どんなだったの?

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1945年3月の東京大空襲で焼け野原になった東京・九段付近の焼跡銭湯風景。
撮影:別所弥太郎氏 花王石鹸ホームページより


 1945年・昭和20年8月15日、太平洋戦争終戦。
 戦時中といえばイメージするのは、空襲、赤紙、配給制、様々な統制・・・。ですが、数年前に映画「この世界の片隅で」を見て、戦争中の人々の生活が現代の私たちのイメージが異なる部分があるのを知り、違う事実が出てくるかもと思い、調べ始めました。

 戦時中は、記録や写真が少なかったり、空襲で資料が焼けたり、戦前と戦後で大きく組織や行政も変わった事で詳しい記録が残っていなかったり。そもそも、銭湯や入浴という日常の事は記録に残りづらいという宿命もあります。その中で可能な限り、昭和時代に書かれた銭湯(公衆浴場)に関する資料やデータを調べて、いくつかのテーマに分けて見ていきたいと思います。

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【終戦の日特集】 戦争中の銭湯は、どんなだったの?

1.非常に大変だった銭湯経営!
2.風呂に入るのも一苦労。
3.終戦、そして、銭湯の復興、再建へ。






○非常に大変だった銭湯経営!

 銭湯は今でこそ、浴場設備や機械の近代化が進み、燃料に都市ガスを使ってる銭湯なんかは、スイッチ押せば適温のお湯が沸くようになっています。(現在でも重油や薪を燃料を使ってる銭湯も多くあります。)昭和初期の銭湯の、お湯を温める主な燃料は、石炭と薪でした。その頃は銭湯の業務の中で、燃料を集める仕事こそ最も労力をつかい非常に苦労したそうです。特に戦時中は、物資不足、燃料不足が酷く、銭湯もその例外ではありませんでした。

 1931年の満州事変からの日中戦争、1941年のアメリカとの太平洋戦争に突入すると、全国の銭湯の中には、軍隊への召集により主人や従業員をとられて、銭湯の労働力が手薄になり、営業継続に支障をきたす浴場が出始めました。昔の銭湯は今よりもはるかに力のいる仕事も多く、また働く人数も多く必要でした。その為、地域の銭湯同士が協力して、燃料の運搬をしたりする事もあったそうです。

 戦時中は、金属器具の供出や、営業時間の短縮、入浴時間の制限、お湯が出るカラン(蛇口)の減数、髪洗いの禁止、空襲警報による中止など、様々な営業上の制限や困難があったそうです。また、戦前までは、銭湯は警察の管轄下にあり、上記のような厳しい統制や検査、また地元警察との交渉に非常に苦労した話は、当時の銭湯の方が度々語っています。

 特に戦時中の燃料不足は深刻で、銭湯経営者の頭を大きく悩ませました。最近もウクライナ戦争による銭湯の燃料費高騰のニュースが時々やっていますが、戦時中は燃料自体が全く手に入らない状況だったので、問題のレベルが違います。


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薪切りの勤労奉仕に従事する埼玉の銭湯の方達 『埼浴 六十年のあゆみ』より

 埼玉の銭湯では、県内の東松山や秩父方面の山に銭湯経営者や従業員が泊まり込みで薪切りの勤労奉仕し、1943年~1945年までのべ200人が従事しました。その自分達が切った薪もそのままもらえる訳ではなく、一旦納めて、それ相当の量を還元配給してもらえる訳です。その為、銭湯の燃料に向かない木材が配給されるなんて事もあったそうです。

 東京の銭湯では、1943年(昭和18)、岩手県で大規模な山火事があり、それを聞いた東京の銭湯の方達が、現地まで燃えた木を薪として買い付けに行き、約1万束を東京に送る。1944年(昭和19)、陸軍補給廠に納入される石炭や建築資材の横流しを東京の銭湯が購入していた事が発覚し、多くの銭湯経営者が取り調べを受け、警察所に留置される者や巣鴨刑務所に収監される者もあった。
・・・という今ではありえないような記録も見られます。


 また、出征する銭湯同業者の武運長久を祈って社寺に参拝したり、出征者に慰問袋を発送、遺家族の家庭を慰問、無料入浴券の公布、一般より安い「軍人入浴料金」を設定している銭湯もありました。
さらに1944年12月には、全国浴場組合連合会が、全国の銭湯からお金を集め、当時の金額で4万525円74銭を「愛国機全国浴場記念号」の制作に国防献納しました。 ※地域や業界や会社でお金を集めて、「愛国機」(戦闘機)制作に献納するという事は当時の多く行われていました。愛国機全国浴場記念号は戦争末期であった事もあり、完成したという記録が出てこないので、実際の制作まではいかなかったと推測されます。


 もう一点重要な点が、先日、銭湯に関する古い資料を読んでいる時に、「1943年(昭和18)12月 全国浴場数19,924軒」とある記述を見つけました。おや?と思いました。いま出回っている銭湯に関する本や記事のほぼすべてで、「銭湯が一番多かったは1968年(昭和43)の18,000軒前後 ※軒数について本によって多少違う」となっています。
 他の戦前の資料も調べて分かったのですが、よくいわれる銭湯の定説は実は違っていて、「全国で銭湯の数が多かったピークの時期は2度あり。戦前・昭和元年~10年代頃と、戦後・昭和30年代~40年代前半頃である。」がより正しいです。戦前・戦争に向かおうとしている時期にも、銭湯は増え続けていたという事実は、非常に興味深い部分です。






○風呂に入るのも一苦労。

 昭和、平成、令和と時代は流れ、どの家にも浴室があるのが当たり前、毎日風呂に入ったり、シャワーするのが当たり前、になった現代。ですが、実はそれが当たり前になったのはここ数十年の事なんです。

 戦時中、当時の一般の家庭では、まだ風呂がない家が多くありました。戦後1963年(昭和38年)のデータになりますが、当時風呂がある家は東京都23区で33.1%、全国を見ると市部で59.1%、郡部で76.1%、全国平均だと59.1%でした。(戦前はこれよりもさらに風呂普及率は低かった事が推測されます。)昭和の時代は、特に都市部や町で家庭の風呂普及率が低かったのです。

 都市部の風呂のない家庭は、近くの銭湯へ。農村部は、風呂のある家へ「もらい湯」をしにいったり、近所数軒で順番に風呂を沸かし持ち回りで「もらい湯」をしていたようです。戦時中、庶民の暮しも、様々な制限が課せられ、石鹸や風呂用の燃料の石炭も配給制になり、水の節約のため、一度使った水を繰り返し使ったり、風呂の回数を減らしたりするように、と回覧がまわっていました。

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1940年(昭和15)の東京市の回覧板。  埼玉県立博物館『ゆ ~お風呂の文化史~』より


 一方、銭湯は、前述のように、慢性的な燃料不足や警察の統制によって、銭湯の営業は制限され、営業日の減少や営業時間の短縮が行われてた為、営業している銭湯自体が少ない状況が続きました。

 当時東京麻布に住んでいた永井荷風の日記(1945年3月7日)には、「午後3時、町の湯のあくをおそしと行列する群衆・・・」という記述があります。また、1944年頃、近所の銭湯が燃料不足でなかなかやっていなくて、何日もお風呂入れず。近くの川の土手に上がって、煙が出ている銭湯の煙突を探して、そこへ向かって歩いていった。もう既にすごい行列が出来ていたので、並んで入浴した。という当時の市民の方の思い出も見つけました。

終戦1945年前後の銭湯の中の状況について、『公衆浴場史』に書いてある部分を引用します。

「なお、当時としては石鹸の入手が容易ではなく、浴客はみな金ダライなどを手にして浴場の開戸前に行列となり、かろうじて入浴するも、ところによっては男女混浴であり、浴槽は常に満員で、洗浴して上がれば、衣服類は盗難にあうなど、まことに今日では想像以上の状況であった。この混乱を体験した浴客たちが、その後幸いに家を新築するに当たって、小なりとも浴室を設ける一因ともなり、生来、団地の居室には必ずというほど浴室を付設することとなったのである。」


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1934年(昭和9)の札幌の銭湯の入浴料金表  『札浴百周年のあゆみ』より

ちなみに当時の東京の銭湯入浴料金は
1928年(昭和3)  大人(14歳以上)5銭 小人(14歳未満)4銭 幼児(4歳未満)3銭 洗髪料15銭
1944年(昭和19) 大人(7歳以上)12銭 小人(7歳未満)6銭 洗髪料15銭
※現在2022年東京の銭湯入浴料金は 大人500円 中人200円 小人100円が上限額

※洗髪料とは、当時、髪の洗う時に取られる追加料金です。今でこそ、毎日髪を洗う人も多いと思いますが、家庭の風呂が広く普及する昭和中期までは、髪の毛を洗うのは多くても月に1~2回が一般的でした。






○終戦、そして、銭湯の復興、再建へ。

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ドラム缶風呂  朝日新聞社 より

 1945年(昭和20)に入ると、東京や大阪、広島、長崎、甲府など多くの都市で、度重なるB29の空襲や爆撃が激しくなり、そこに住む市民や市街地にあった銭湯も大きな被害も受けました。京都のように空襲被害がわりと少なかった都市もありました。

 燃料不足、空襲で焼けたり、建物疎開で取り壊されたりで、1943年頃から廃業や休業する銭湯が徐々に増えてきます。終戦間際の頃は、燃料・人手不足のため東京の銭湯は営業している所ですら、3日~5日に1日の営業という状態だったようです。太平洋戦争が始まった1941年には2,796軒あった東京の銭湯は、1945年8月15日の終戦の日に残っていたのは、わずか400軒ほどでした。

 川崎で銭湯を営んでいる星野さんが祖父の話として、「昭和20年(1945年)4月15日の”川崎大空襲”で店は焼失してしまったものの、幸いにも釜と煙突が焼け残った為、周りを囲って、暫くの間、露天風呂ならぬ全てが野天の”野天風呂屋”を営んでいたそうです。」


 終戦直後は、営業再開したくても修理業者も資材も燃料もない状態でした。幸いにも建物が残った銭湯、焼け残った資材をなんとか集め上記の川崎や冒頭の東京九段の写真のように野天風呂で営業する銭湯、仮設浴場を作って営業再開する銭湯もありました。それらの銭湯は、終戦直後の混乱期に住民の保健衛生に大きく貢献しました。

 終戦後の数年間は引き続きお湯を沸かす燃料不足は深刻で、電気でお湯を沸かした「電化浴場」が全国で多く出現した。(終戦直後は電力の余剰があった。)ただしすぐに国内の電力需要が回復したのと、電気でお湯を沸かす作業が危険だった事もあり、この電化浴場すぐに姿を消しました。

 終戦後しばらくは営業している銭湯も少なくどこも大混雑で、東京足立のタカラ湯さんの当時の日記には、「毎日1500人~2000人、大晦日には3000人ほどの客が入っており場内は歩けないほどの混雑だった」そうです。現在の東京の銭湯の平均入浴者数が1日140人前後といわれているので、その10倍以上ですね。


 こちらは1949年(昭和24)~56年(昭和31)頃の東京の小平で地元の写真家・飯山達雄氏撮った写真。終戦後まもなくの営業中の銭湯の写真は貴重ですし、当時の生活の雰囲気が分かる良い写真です。
こだいらデジタルアーカイブより
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 ここから、昭和20年の終戦から昭和40年前半までが、銭湯の復興・黄金期であります。この時期の銭湯もとても興味深い時期なのですが、それはまたの機会に


 長文、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 冒頭に書いた通り、まだまだ調べたりない部分や未知の部分は多くありますが、少しでも戦争中の銭湯や人々の暮しに興味をもってもらうきっかけになれば幸いです。





○参考文献

『公衆浴場史』   公衆浴場史編纂委員会編   1972
『全浴連三十年史』  全国公衆浴場業環境衛生同業組合 著   1990
『全国浴場新聞』2012年6月号  全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会 
『大浴30年のあゆみ』  大阪府浴場商業協同組合30周年記念誌編纂委員会 編  1984
『30年のあゆみ』  東京都公衆浴場商業協同組合  1980
『創立五十周年記念誌』 板橋浴場組合 1979
『半世紀の思い出』 池袋浴場組合 1978
『21世紀を生きる公衆浴場』 京都府公衆浴場業環境衛生同業組合 1983
『埼浴六十年のあゆみ』 埼玉県公衆浴場業環境衛生同業組合 1985
『札浴百周年のあゆみ』 札幌公衆浴場商業協同組合 2004
『日本清浄文化史』 花王石鹸資料室 編  花王石鹸  1971
『浴室を考える本』 住いと暮しを考える会 INAX 1989
『特別展 ゆ ~お風呂の文化史~』  埼玉県立博物館  2000
『ビジュアル 日本の住まい ④近現代(明治時代~現代)』 家具道具室内史学会  ゆまに書房  2019
『お風呂の富士見誌 ~うちで湯ったり・でかけていい湯~』  富士見市立難波田城資料館   2020


足立北千住・タカラ湯
花王石鹸ホームページ
お風呂アドバイザー 洗いの殿堂
小平市立図書館/こだいらデジタルアーカイブ



◎【終戦の日特集】 戦争中の銭湯は、どんなだったの?

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